目次
第1回の特集記事で物質量(㏖)は単位であり、6.02×10^23個の原子、または分子のまとまりを「1㏖」と定義していることをおさらいしました。後半ではアボガドロ定数に名前が使われたイタリアの物理・化学者のアメデオ・アボガドロの生涯に焦点を当てていきたいと思います。
アボガドロは1776年に法律家の家に生まれました。大学では法学や哲学を学び、卒業後は法律家、弁護士として法律事務所で働いていました。
しかし彼は1800年頃に数学と物理学に興味を示し、今までの自分の仕事とは異なる理系分野の研究に力を入れ始めます。
化学の発展に貢献したアボガドロですが、最初から化学者の道を目指していたというわけではなかったんです。
彼は大学で物理学を教えながら研究に励み、アボガドロの法則を発表します。
(アボガドロの法則というのは「同圧力、同温度、同体積のすべての種類の気体には同じ数の分子が含まれる」というもの。高校化学で習います。)
しかし、彼の書いた論文は当時の人々にとって難解なものであったため、学会の相手にされることはなく、アボガドロは生涯ほとんど評価されることはありませんでした。しかし、彼の功績は彼の死から4年後の1860年に再評価されることになります。
どうしてアボガドロは再評価されたのでしょうか?
彼の功績で注目すべきことは
「原子・分子を一定の個数が集まった塊として捉えたこと」です。
アボガドロの考えが化学者たちに認められるまでは、原子論を唱えたイギリスの物理・化学者のジョン・ドルトンの考えに基づいた計算がされていました。(原子論とは元素を構成する究極の粒子が原子であり、同種の元素の原子はすべて等しいという説。これもまた高校化学で登場します。)
そのため、化学者によって使用する原子量が異なるなどの問題が起こっていました。
アボガドロの考えが世間に認められたことによって、化学者の間で異なっていた原子量の計算方法が統一されるようになり、今まであいまいだった分子と原子の違いが明確になりました。
アボガドロの考えは様々な化学者に多大な影響を与えています。
アボガドロの考えが認められるきっかけとなったのは1860年に開かれた世界初となる化学者の国際会議(カールスルーエ国際会議)でした。この会議は原子量と分子量がテーマとなっており、この会議でイタリアの政治家・化学者のスタニズラオ・カニッツァーロがアボガドロの考えを紹介したことで彼の考えは世界中の化学者に知られました。
実はこの会議にはロシアの化学者であるドミトリー・メンデレーエフも出席していました。彼はこの講演に大変感銘を受け、原子量の重要性を感じます。後に原子量を用いた周期表を作成するメンデレーエフにもアボガドロの考えが影響しているんです。
物質量特集は今回でおしまいです。今まで物質量(㏖)が苦手だった人も得意な人も、今回の記事を読んで少しでも化学に興味を持っていただけたらうれしいです。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!